さかなをたべると

べつにあたまはよくなりませんが…

「レ・ポワソン」を偲んで

こんばんは。ヘラクレス実写化の報に日々怯えているおさかなです。

 

昨日、リトル・マーメイドの実写リメイク映画が公開されました。吹替版で観ました。
一尾の原作厨として思うところは色々ありましたが、まあ概ねいい映画だったと思います。
すごくリアリズムしてましたね。考証とかをがんばったんだろうなあと感じました。良くも悪くも。

 

ただ、「思うところがある」で済ませられない悲しみを感じた点も幾つかあったので、忘備録かつ同じ悲しみを抱いた誰かへのお手紙としてインターネットに感想を記しておきます。


これから何を言うかをひとことでまとめると、「レ・ポワソン、どうして消したの?」です。
20文字以内で済むことを長々と脈絡もなく語っていますが、お暇でしたらお付き合いください。


!注意!
ここに書かれていることは全部妄言ですし、おさかなはおさかなさんなのでむずかしいことはよくわかりません。本気にしないでください。

 

 

海と陸の間の「見えない境界」

 

実写版のリトル・マーメイドをものすごく雑にまとめれば、「差別と偏見を乗り越えて、違う世界にいると思われていたふたりが結ばれる物語」です。

 

そのため、海と陸、人魚と人間とは本質的に対等な関係でなければなりません。(※本質的に対等でない関係においてヒトやモノが移動するのは搾取になってしまうので)

 

今作はアニメ版に比べるとお話の対立の軸がすごく整理されているように感じました。描写や登場人物が足されたところは殆どそこだと思います。追加要素によって海と陸とが本質的に対等であるということを作中でアピールし続けているのです。

 

まずアリエルとエリックの設定からして「父と娘の対立」と「母と息子の対立」でいっそ清々しいくらい鏡合わせの関係になっていますね。保守的な親に反発する先進的な子ども、という枠でいえば似た者同士。
これはふたりが恋に落ちたことの論拠でもあります。流石にお互い一目惚れだと今の時代ちょっと無理があるみたいですね。

 

アニメ版では海から陸への一方通行の憧れでしたが、実写版ではエリックも海(の向こう)に憧れています。エリックは追加曲にて「見えない境界を飛び越えたい」と歌いました。

 

マイナスな面でも対等さが意識されています。陸のものは海に奪い去られ、海は陸のものに傷つけられています。船が沈むたびに、陸の人間は海の神を憎み、海の人魚は陸の人間を恨みます。

 

このように対の関係と対等さが強調されたからこそ、「人間と人間になった人魚が手を携えて未知の海域へと旅立っていく」というラストにもつながるのでしょう。

 

ただ、ここまで述べてきたのはあくまで「人魚と人間の対立」です。
海には魚もいることをお忘れなく。

 

 

素晴らしい アンダー・ザ・シー

 

喋る魚はそう多くありません(より正確に言えば、「そう多くは知られていません」)

人間が撮る映画である以上、魚をキャスティングすることは難しいでしょう。おさかなだって流石にそこまで種の平等を叫びはしません。仕方がない。人間にはまだ難しい。わかります。おさかなは理性的なおさかななので理解を示しましょう。

 

とはいえ、本作に出演する「喋る魚」はごく少数です。
というかフランダー1尾だけです。
セバスチャンはカニですしスカットルは鳥です。
海の中のお話なのに、喋る魚はフランダーだけ。


これはちょっとおかしくないですか?

 

 

喋る魚たち

 

ではここでちょっとアニメ版を思い出してみましょう。

 

まず冒頭。網にかかったところをからくも逃げ出す魚さんがいますね。
喋りこそしませんが、「ヒュウ……」と安堵のため息をついています。

魚にだって心はあるわけです。

 

続いて、音楽会の司会を務めるタツノオトシゴさん。

お名前はヘラルドさんだそうです。
彼はこの後も何回か登場します。結構喋ります。

 

それからみんな大好き王室専属の作曲家、ホレイショ・イグネイシアス・カニチャン・セバスチャンと、けなげでかわいいフランダー。実写版でも大活躍です。

 

スカットルは魚じゃありませんが喋ります。こちらも性別と種族こそ変わりましたが健在です。性別と種族が変わってるのを健在といえるかどうかには議論の余地があるとは思いますが……

 

言わずと知れた「アンダー・ザ・シー」。

喋りこそしませんが色々な魚が歌ってくれます。

ロブスターらしき青い甲殻類の方はセバスチャンとハモって歌いますし、「すぐ皿の上」では青い魚さんがソロを務めます。「素晴らしい」の合いの手は巻貝をはじめとした皆さんが行い、ブラックフィッシュさんも力強い歌声を披露しています。

 

こちらも有名、アースラの手下のウツボであるフロットサムとジェットサム。
言葉巧みにアリエルを誘います。最近グッズが多くて嬉しいですね。

 

「キス・ザ・ガール」にもたくさんの水辺のお友達が登場します。
メインは魚じゃないですが。カエルさんとかフラミンゴさんとかホタルさんとかですが。
でもやっぱり魚だってコーラスで参加しています。


お気付きですか?
魚って……歌うんです!

歌うんなら喋れます。なんなら楽器だって演奏します。音楽、奏でまくりです。

 

 

声を失った魚たち

 

では翻って実写版に戻りましょう。魚、喋らな過ぎじゃないですか?

 

「アンダー・ザ・シー」を思い出すのが一番手っ取り早いと思います。
魚は歌わず楽器も演奏しません。波に揺られてただ踊るだけ。
歌うのはセバスチャンだけです。ハモる役目はアリエルに渡りました。「すぐ皿の上」「ヤダネ!」もひとりでやります。ひとりでやると言葉がうまく続かないにもかかわらずひとりでやります。ほんとうです。みなさんもひとりで歌おうとしてみてください。あんまりうまく続かないので。
字幕版を観られていないので何とも言えませんが、"The newt plays flute"から始まる一連の歌詞は魚の単語と楽器の単語とで韻を踏んでいたはずです。フルートもハープもないのに何をどう受け止めろと言うのでしょう。

 

「キス・ザ・ガール」でもメインとなるのはセバスチャンとスカットルとフランダー、それと「自然のハーモニー」です。
竹らしき植物の音をパーカッションに使うのは個魚的にはかなり好みな演出でしたが、それはそれとして。魚や水辺のお友達の出番は著しく減っています。

 

ヴァネッサとエリックの結婚を阻止するシーンも、スカットルとマックスだけのものになっています。なんなら巻貝のペンダントを叩き割るのはアリエルの仕事でした。すごい剣幕で掴みかかるのでちょっとビビってしまいました。

 

最大の被害者と言えるのはフロットサムとジェットサムでしょう。
台詞をまるまるアースラに譲っています。彼らは遂にひとことも喋らない「ベイビーちゃん」にされてしまいました。吹替版では(恐らく)名前すら出ていません。

 

これだけでも海と水辺のお友達の出番がアニメ版に比べて減らされているのは明らかでしょう。


でもこれだけじゃありません。
トリトン王のマントに使われていた小魚たちを思い出してください。きらびやかに見せるためだけにまとめて侍らされている魚たちの姿を。ちょっと気の毒に思いました。魚は装飾品に成り下がってもいるのです。

 

その上、「魚は友達」ではないことまで示されてしまっています。
スカットルが海中に飛び込んで「おやつ」として食べていたのは間違いなく魚です。が、その現場を目撃していたアリエルやフランダーはそれに何の言及もしません。
これでは人間のことを「魚を食う連中」と罵倒している暇はないでしょう。

 

加えて、人魚から魚への「眼差し」も減っています。
「パート・オブ・ユア・ワールド」ではアリエルは殆どフランダーを見ませんし、「哀れな人々」でもアースラからフロットサムとジェットサムへの目配せが随分減らされています。


そう、実写版においては海の中にも格差があることが特に強調されてしまっているのです。

海中の描写のリアリティにこだわった結果、むしろ喋る魚とそうでない魚の関係、或いは人魚と魚の関係について思わず考え込んでしまうような構造になっています。
これはわたしが魚だからかもしれませんが、少なくとも魚には考えさせられるところがあるわけです。

 

 

あぁラブリーなオサカナちゃん

 

その割を食ったのが「レ・ポワソン」です。

ここからようやく本題に入ります。

 

では、またアニメ版に立ち返り、今は亡き「レ・ポワソン」に思いを馳せましょう。

 

「レ・ポワソン」はシェフのルイがフランス風の曲調と歌詞で魚の調理法を楽しく歌い上げる歌です。
人間目線では楽しい調理ですが、"食材"側からすれば世にも恐ろしい場面ですね。
うっかりキッチンに紛れ込んでしまったセバスチャンは、目の前で魚やカニが惨たらしく解体されていくのを見て吐き気を催すだけでなく、自らも生命の危機に晒されることになります。

 

「レ・ポワソン」は「食べられる者」としての魚の立場を強調する歌でした。

セバスチャンが活躍するアクションシーンでもありますが、正直アリエルの物語の本筋には関わってきません。
「リトル・マーメイドから1曲削れ」と命じられたら、まずこの曲が選ばれることでしょう。わかる。わたしも「レ・ポワソン削られてたらやだな……」と言いながら劇場にヒレを運びました。

 

モアナと伝説の海の「シャイニー」は、作詞者であるリン=マニュエル・ミランダによって「セバスチャンの逆襲*1」と(冗談交じりに)表現されたことからもわかるように、人間がカニに食べられる歌でした。

タマトアは大きくて偉大なカニですので人間を食べることもできますが、わたしのような一般魚にはとても無理です。魚はどう藻掻いても人間と対等になることはできないのです。

 

カニは人間に食べられますが、人魚はそうではありません。
人魚は人間と仲良くできても、魚はそうではない、かもしれないのです。

 

もうおわかりですね?

 

せっかく全編を通して海と陸との対等さを描いてきたというのに、「レ・ポワソン」で「食べる者と食べられる者の関係」の不平等さを思い出してしまわれては物語のテーマがブレてしまいます。サークルオブライフは別の映画でやってもらいたいわけなのです。


そういうわけで、哀れ「レ・ポワソン」はセバスチャンからわずかに言及されるのみという削除の憂き目にあったのでした。

 

エリックたちが飛び越えたかった「見えない境界」は、結局「食べる側」の間に横たわっていたのです。

 

以上、一尾のおさかなとして、「あーあ、やっぱりお前らもそっち側かよ」と思ったというお話でした。
ここまで長々とお付き合いいただきありがとうございました。おさかなは寝ます。


追伸
ヴァネッサ、よかったですね。セクシーで。